THE SOUL OF ZEZE  -瀬々敬久監督自選作品集- 対談

2010年8月10日~18日  アテネ・フランセ文化センターにて
『ヘヴンズ ストーリー』の公開を記念して瀬々監督自選による特集上映が開催され、
連日、多彩なゲストを招いて対談(鼎談)が行われました。その1部を採録して順次掲載します。 

入江悠 監督富田克也 監督真利子哲也 監督青山真治監督+安井豊氏井土紀州監督アレックス・ツァールテン氏 松本健一氏


8月18日 真利子哲也監督 最新作『イエローキッド』オフィシャルサイト

『イエローキッド』 ’10


瀬々 僭越ですけど、真利子くんはぼくが最も期待している若手監督です。

真利子 ありがとうございます。

瀬々 真利子くんとの出会いは、数年前の調布映画祭に審査員として参加したときで、彼の出品作『ほぞ』(01)を見てすごいと思いました。
この作品はその年のグランプリを取るのですが、次の年に出した『極東のマンション』(03)という作品では、真利子くん本人が自分のからだを
ロープでグルグル巻きにして、マンションの屋上からほんとうに飛び降りるんですよ。
これを見たとき、こいつマジでアブナイやつだと思いました(笑)。で、このままだと真利子くんはいつか死ぬなと思ったので、この路線を放棄して
もらうために『極東のマンション』にはグランプリをあげませんでした(笑)。
さらにその次の年が『マリコ三十騎』(04)だけど、この作品では法政大学の学生会館解体への反対闘争をひとりでやっているんだよね?

真利子 そうですね。ぼくが卒業するのと同じタイミングで学館が解体されて新しいビルが建てられることになったので、現在の自分と祖先と、
デジタルビデオと8ミリフィルムをそこにリンクさせるかたちで、廃れるものと新しいものの共存、という主題で作品をつくりました。

瀬々 最新作の『イエローキッド』(09)は渋谷のユーロスペースで上映されたので、いち観客として観にいきました。
前半は上品ぶって撮っているんだけど、最後はしっかり大爆発するので、さすがは真利子くんだと安心しました(笑)。

真利子 じつは、そこは反省もあるんです。『イエローキッド』は、「主観」と「客観」と「妄想」と「妄想の妄想」までを、唐突に入り混ぜたメタ構造に
することで、物語をグシャグシャに歪ませました。これはつまり『アバター』(09)や『インセプション』(10)を低予算でやったということなんです(笑)。

瀬々 そうっすか(笑)。でも、それならいいんじゃないの?

真利子 やるなら覚悟が必要だと思ったんです。その「グシャグシャに歪ませる」というのは自分では論理的にやっているつもりなのですが、
中途半端に纏めてしまったせいもあって、狙いがうまく伝わらずに「自主映画的」という批判をうけたりもしました。
自分がおもしろいと思ってやっても、伝わらないと悲しい。だから、もしやるのであれば、狙ったことをしっかりとやれる体制を整えるべきだなと。

瀬々 なるほど。でも、もしやりたいことがあるのなら、それを作ろうとする意思のほうが大切だとぼくは思うんだけど。
体制は作りながら整えていくしかない。なかなか難しいことだとは思いますが。

真利子 瀬々さんは、『MOON CHILD』(03)のような商業映画と、『ユダ』(04)のような小規模な映画の両方を作っていますよね。
たとえば小規模な映画でしかやれないようなグシャグシャ感を、商業映画のなかに持ち込むことは難しいですか?

瀬々 うーん。ぼくに関していえば、『MOON CHILD』や『感染列島』の感想をネットでみると、ラストが酷いとか全然まとまってないとか、
しょっちゅう書かれてますよ(笑)。コワしてしまうのが癖になっちゃっているんです。だから才能ないとか書かれるんだけど(笑)。
たしかに伝わらないグシャグシャだと商業とか小さい作品とか関係なくダメなんだと思います。
でも、ぼくはやっぱり、真利子くんの作品におけるグシャグシャ感はおもしろいと思っています。真利子くんの同世代の人が作る映画は自分の
内面を描くとでもいうか、内側に向かっていくことが多いのですが、真利子くんの映画は、家族とか社会とか、自分の外側にあるものを常に
作品の軸に据えているところが好きです。これにはなにか理由があるんですか?

真利子 家族は常に自分についてまわるもので揺るぎないものだから、ですかね。どうであれ、自分は誰かから生まれている、という。
一方で、学館や8ミリフィルムに限らないのですが、ぼくの世代は――他の世代の方々にもあるのかもしれませんが――身の回りにある様々な物
が常に失われていくなかで生きてきたという実感があります。高校の校舎が、卒業した次の年には合併されてあっさり失くなってしまうとか
よくある話ですよね。もともといたはずの場所なのに、一年経っただけで自分がすっかり過去のひとになってしまったように感じる。
だから学館や8ミリは、いましか撮れないものとして被写体に選びました。現在の映画の状況に繋げると、上の代からの教育というか、
技術の継承というか、受け継がれるべきものが途切れてしまっているように感じます。たとえば映画の世界でいうと、助監督としての修業時代を
経てから監督になる、という流れはもうなくなっているんですよね?

瀬々 そうですね。いまの日本映画は、極端にいうと予算一千万円以下か一億円以上の作品に二分されていて、五千万円くらいの中規模の作品
がすごく減っている状況です。でもデビュ―作が予算数百万円とかだと、バリバリのプロの助監督としてやってきたひとはプライドが許さないところも
あるだろうし、プロデューサーも声がかけづらいですよね。いま準備している作品では助監督の方にもシナリオに参加してもらっていて、
監督としての道が開くきっかけのひとつになればと思っているんだけど、逆にいえば、そんなかたちでしかきっかけを作れない難しい状況です。

真利子 シナリオの話が出たので伺いたいことがあります。今日上映されたうちの二本(『ユダ』、『肌の隙間』(04))は、『へヴンズ ストーリー』の
シナリオ担当でもある佐藤有記さんが参加していますが、瀬々さんのそれ以前の作品とくらべて明らかな変化があって、超越的、神秘的な要素が
入ってきますよね。たとえば、『肌の隙間』には常人離れした無垢な人間が出てくるし、『ユダ』ではキリストが物語に絡んできます。

瀬々 じつは、その超越的な要素は僕の方から出したもので、それは以前からやっていたんだけど、佐藤有記が書くと作品全体に透明感が覆うの
で、その超越的なものが尖って見えるというか、こう、ダイレクトに伝わって来るんだと思います。彼女の資質は、いま生きているという実感を大切
にしてシナリオを書けるところにあるんだと思います。ぼくや井土紀州だとどうしても観念的になってしまうような日常の生々しい細部を、
彼女はグイグイ書いていける。その資質が、女性だから持てるものなのか、若さからくるものなのかは分からないのですが。

真利子 女性だから起用した、というわけではないんですね。というのは、観客に男性が多いからなのか、ピンク映画時代の作品はすごくマッチョだ
と思ったんです。

瀬々 たしかにマッチョだよね(笑)。ピンク映画にもマッチョじゃない作品は沢山あるので、それもあくまでおれの資質によるものです。ただ、『ユダ』
や『肌の隙間』はマッチョさをなくそうと務めたんですよ。90年代には立ち向かう「敵」――「世の中」でも「時代」でもいいのですが――とでもいうよう
な刃向う対象がありました。だけどいまは、「敵」がなくなったというか、見えなくなっているだけなんでしょうが。そのなかで自分たちが生きていると
はどういうことなのかを考えていくと、さっき真利子くんがいっていたような、生きている実感や時代のリアリティに向かうようになりました。
そのときに佐藤有記の才能が必要だったんです。

真利子 『ユダ』もそうですが、近年はビデオで撮られた作品が増えていますよね。フィルムからヴィデオへ移行するときに意識の変化はありました
か?

瀬々 2000年ぐらいを境にビデオの性能が飛躍的にあがったというのもあるのですが、現場のなかで神様みたいになってしまう大袈裟なフィルムの
カメラにくらべると、もっと気楽に、気配を消してリアリティを捉えることができるのがビデオの利点ですね。先程8ミリとビデオの話がでましたけど、
真利子くんはどうなの?

真利子 話がズレるかもしれませんが、上の世代の方々の作品は、過去の映像=8ミリの映像として使うことが多いですよね。ぼくはまったく逆な
んです。自分の子供時代の映像がビデオで撮られていたこともあって、過去の映像=8ミリの映像という感覚は自分のなかにありませんでした。
8ミリは、自分が予算のなかで使うことができる貴重な「フィルム」だったんです。ずっと8ミリをつかっていたので、初めてビデオでつくった作品は、
撮影現場も、出来上がった映像も、かなりユルいものになってしまいました。手間のかかる8ミリにくらべると、ビデオは狙いがなくてもサクサク撮れ
てしまうので、映画の作りかたがわからなくなってしまったんです。

瀬々 なるほど。ドキュメンタリー的なものよりも、作りものというか、フィクションの方が真利子くんには向いているんだね。

真利子 そうだと思います。瀬々さんの作品は、実際の事件をモチーフにして作られることが多いですが、フィクションと現実のバランスはどのように
考えているんですか?

瀬々 よく聞かれるんだけど、極端ないいかたをすれば――事件の当事者にとってはすごく失礼なことかもしれないけど――実際の事件はあくまで
“とっかかり”として考えています。たとえば今村昌平は、事件の詳細を徹底的に調べあげたうえで掘り下げていくという方法をとっていましたが、
ぼくは事件そのものを描きたいわけではなくて、「事件」と「ぼくや真利子くんたちが生きる現実」の関係性を捉えたいんですね。
先程 は“とっかかり”といいましたが、事件があった現場でじっさいに撮影することもあるんですよ。なぜかというと、過去に事件があった場所で
現在を生きるぼくらが映画を作るとはどういうことなのか、を考えたいからです。だから撮影行為そのものが作品の重要な要素であり、
ぼくが「事件」に近づくことでもあり、さらには「ぼくや真利子くんたちが生きる現実」に近づくことなのだと思っているのです。

(採録:シネ砦集団)


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