THE SOUL OF ZEZE  -瀬々敬久監督自選作品集- 対談

2010年8月10日~18日  アテネ・フランセ文化センターにて
『ヘヴンズ ストーリー』の公開を記念して瀬々監督自選による特集上映が開催され、
連日、多彩なゲストを招いて対談(鼎談)が行われました。その1部を採録して順次掲載します。 

入江悠 監督富田克也 監督真利子哲也 監督青山真治監督+安井豊氏井土紀州監督アレックス・ツァールテン氏 松本健一氏


8月13日 井土紀州監督 映画一揆 井土紀州2010

ラザロ-LAZARUS-』 ’07    『行旅死亡人』 '09   


瀬々  いま見ていただいた『終わらないセックス』'95 は、井土くんに初めてシナリオを書いてもらった作品です。90年代の始めごろ、ぼくや佐藤寿保さんやサトウトシキや佐野和宏が監督したピンク映画、そして 河瀬直美さんが初めて東京で紹介された「新・日本作家主義列伝」という特集上映がこのアテネ・フランセ文化センターであったんですが、その頃、ぼくが毎日 アテネに通っているときに、映写を担当していたのが井土くんだったんです。名前が“井土紀州”で三重県出身、しかも中上健次の大ファンということで話が盛 りあがって、当時の井土くんはプロのライターではなかったのですが、一緒にシナリオを書かないかと誘いました。それ以降、何年か一緒にコンビを組んで作品 をつくったという間柄です。

井土 声をかけていただ いた当時のぼくは、『百年の絶唱』'97 という自分の監督作品がうまくいかずにいき詰まっていたときでした。そんなときご一緒に『終わらないセックス』のシナリオをやらせてもらったおかげで、シ ナリオ、特にドラマというものをつかめた気がしました。まさに起死回生というか、その経験があったから『百年の絶唱』を完成させることができたんです。そ ういう意味で『終わらないセックス』は自分の人生を大きく左右した作品です。ただ、当時はシナリオのフォーマットすらよくわかっていなかったので、ダメ出 しされまくった辛い記憶もたくさんあるのですが(笑)。話は変わるんですけど、見直してあらためて思ったのは、『終わらないセックス』ってすごくベタなメ ロドラマというかヒーロー譚ですよね。さらには、この後に作った『赫い情事』'96 では「山椒大夫」をやろうとしていたじゃないですか。あのころはそういった「物語の定型」とでもいうべきものについてよく二人で話した記憶があるのです が、その後の瀬々さんのなかで物語にたいする考えやモチベーションに変化はあったのでしょうか?

瀬々  うーん。その話と直接関係があるのかわかりませんが『終わらないセックス』を作ろうとしていたときは、地下鉄サリン事件があった直後で、そんなときにワイ ドショーのなかで「北陸OL全裸殺人事件」というニュースが報道されたんです。OLの全裸死体がアパートで発見されたという典型的なワイドショー・ネタ で、その後の進展はまったく報道されなかった。オウム一色になっていた世のなかに一瞬だけ紹介されたこの事件の寂しげな在りように、とても心を動かされた んです。そしてこの事件を出発点として、世のなかを覆う殺伐とした雰囲気のなかであえてベタな男と女の物語を立ちあげてやろうと思いました。ぼくはヘソま がりなので(笑)、時代性とは別の問いを発したかったんです。だから――いま思い返してみるとですが――もし世のなかの雰囲気がちがうものだったら別の話 になっていたかもしれません。

井土 なるほど。よく 覚えているのは、事件があったアパートの部屋から――おそらく犯人の声が録音されていたんでしょう――留守番電話のカセットテープだけが盗まれていたこと に瀬々さんがすごく反応して、「この空白だよ!ここから物語が始まるんだ!」と仰っていたことです。現実からひとつだけ欠けているものがあったとき、その 空白を想像力で埋めていくことがおれたちのフィクションの作り方なんだと。その考え方は、いまでも、ぼくが物語を立ちあげるときの原理のひとつになってい ます。

瀬々 「謎」というものは、ぼくにとって映画 を作るときの重要な要素のひとつなんですよ。なぜなら「謎」を突き詰めていくことは“発見”していくことだからです。そしてもうひとつ重要なのが、物語そ のものを乗せる器、あるいは仕掛けとしての “グシャグシャ感”です。たとえば、カセットテープにはA面とB面がありますが、A面が回転している裏では、聴きとれないけれどB面も同時に回転していま すよね。つまり物語の構造だけを提示するのではなくて、AとBという異なる二つの物語が同時に進行しながらグシャグシャと混ざり合っていく世界観=器を作 ろうということを、キャメラマンの斉藤幸一さんとは話していました。

井土 その“グシャグシャ感”へのこだわりってどこからくるんですかね?

瀬々 それは資質というか性格の問題だと思いますよ。資料を調べたりしているときに、井土くんは徹底的に調べあげていくんだけれど、ぼくは面白そうなものがあったらすぐにあちこち反応しちゃうんだよね(笑)。井土くんが鳥的な視点だとすると、ぼくは虫的な視点なんですよ。

井土  個人的には、瀬々さんの“グシャグシャ感”へのこだわりがよく出ているのは、『牝臭 とろける花芯』'96 と『KOKKURI こっくりさん』'97 だと思います。この二本はセットで上映されるべきですね。瀬々さんの映画には水が非常によく出てくるのですが、この二本は、まさに水と人間の精神が溶け合 うようにしながら“グシャグシャ感”全開の世界を作りあげていく作品です。で、瀬々さんがその“グシャグシャ感”の中に入ってしまったときは、ぼくはサッ パリわけがわからなくなっていた(笑)。よく覚えているのは、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のなかで、ある少年が眠っているときにもうひとり別の少年が水に 溺れていて、やがてふたりの意識がシンクロしていく……。こういうことをやりたいんだと瀬々さんに言われたときに一応は納得できたのですが、同時に、これ をシナリオでやるのは難しいとも思っていたんです。後の作品を見ていくと、「来世」や「もうひとつの現実」なども提示されるようになっていきましたけど、 いまもそのような世界観へのこだわりは強くあるんですか?

瀬々  個人的な好みとしてはあるんだけど、最近はもっと「生々しい現実」を目指したいと思っています。井土くんの前に松本健一さんや入江悠くんとも対談したんで すよ。松本さんは最近「愛郷主義」を唱えていて、グローバリゼーションの均一化された世界のなかで、国家を頼るのではなく自分の住んでいる土地を頼るんだ ということを言っているんです。

井土 パトリオットイズムですね。

瀬々  そう。そして入江悠くんは、自分の故郷を拠点として『SR サイタマノラッパー』を撮った。興味深いのは、松本さんはグローバリゼーションや国家への対立概念として「愛郷主義」を唱えている。だけど入江くんの場 合、カタカナの「サイタマ」は特定の埼玉を指しているのではなくて、均一化された世界のあらゆる場所がシャッター通りであり、郊外であり、「サイタマ」な んだと言っているわけです。井土くんも『ラザロ-LAZARUS-』'07 で同じ問題系を扱っていると思うのですが、自身の立ち位置はどこにあると考えているんですか?

井土 松本健一さんにはグローバリゼーションへの明確なカウンター意識というものがあり、一方で入江さんの考えは、グローバリゼーションのなかで偏在化し均一化する空間を映画の中で描いていく、いうことになるんでしょうか?

瀬々 ぼくの解釈では、物心がついたときから世界はそうなっていたのだ、と。

井土  なるほど。ぼくの場合は、愛郷心であれ、グローバリゼーションによって均一化された世界であれ、それらを自明のものとして発言や物作りの根拠にはしたくな いんです。むしろ、その自明性を疑うことから物作りは始まると考えています。そのためには、社会や現実というものをいかに構造的に捉えるか。そして、社会 の構造が今こうなったその起源を露わにする、歴史性へのこだわりがあります。『ラザロ-LAZARUS-』の三本目(『ラザロ-朝日のあたる家』篇)は、 明確にそういう姿勢で取り組みました。

瀬々 語弊があるかもしれないけど「分析者」という立場になるのかな?

井土  分析的でありたいと思っています。登場人物がテロリストだったり、強烈に異議申し立てをしたりするので戦闘的な映画だと思われがちですけど、ぼくはあくま で分析的に現実を捉えてそれを描いているつもりです。それができれば、無理に告発調というかたちをとらなくても映画は確かな武器になると思うんです。一方 で、ぼくは主観的には世界の破滅を望んでいます。グローバリゼーションが手おくれの事態にまで進行して、貧富の差が激しくなり、世界がめちゃくちゃになれ ばいいというヤケクソな気持ちになることが多い(笑)。そうすれば、暴動や混乱が起こって、この世界のからくりが壊滅し、チャラになるかもしれない。瓦礫 や廃墟の世界から、新たな何かが再生することを望んでいるんです。物語のネタになるという意味では社会における矛盾は大きい方がいいし、対立する立場は明 確な方がいい。対立する二つの立場があったときに、その対立や矛盾を描くことを通して、新たな認識を掴むことが出来るからです。

瀬々  そのへんが“グシャグシャ感”にたいする齟齬の理由になるのかもしれない。対立する二つの立場が存在すると、ぼくはその状況の「分析者」にはなれなくて、 どちらの中にも入り込んでしまうんですよ。当然そこには矛盾をはらむことになります。たとえば松江哲明監督からは、「瀬々さんは『フライング☆ラビッツ』 '08 や『感染列島』'09 を撮らなければいい監督なのに、なぜ撮るんですか?」という批判をよく受けるんですよ(笑)。

井土  瀬々さんの“グシャグシャ感”へのこだわりは、目の前にある世界の矛盾やカオスも含めて丸ごと捉えたいという欲望の表れだと思います。そこには否定も肯定 も含まれている。ぼくは世界の矛盾を突くことで、その世界が少しでも変わることを望んでいるんです。主観的には、その矛盾が大きくなることで一度は、現在 の社会が滅びてもいいと思っている(笑)。いろいろ批判はあるでしょうが、瀬々さんは瀬々さんの欲望に忠実に、ぼくはぼくの欲望に忠実にお互い好き勝手に やればいいと思いますよ。そこに信念さえあれば。

瀬々  そうなんだけど。ただ、ぼくはやっぱり、そういったメジャー映画は自分の仕事として今後も撮り続けなければいけないと思っている。ぼくがピンク映画を撮っ ていたとき、メジャー映画とピンク映画は<ノー・ボーダー>で上下関係なんてないんだから、両方をやるべきだと思っていたしね。でも自己分析してみると、 そもそも<ノー・ボーダー>という発想じたいが上下関係=<ボーダー>を認めている証拠でもあるんだよ。だけど、先ほど言及した入江くんにとっては、もと もと<ボーダー>という前提そのものがないんですね。つまり現在の自分が映画を撮っている立ち位置を考えることと、グローバリゼーションにおける均一化さ れた地方について考えることは、同じ問題として自分のなかで密接にリンクしているのです。

(採録:「シネ砦」集団)


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