THE SOUL OF ZEZE  -瀬々敬久監督自選作品集- 対談

2010年8月10日~18日  アテネ・フランセ文化センターにて
『ヘヴンズ ストーリー』の公開を記念して瀬々監督自選による特集上映が開催され、
連日、多彩なゲストを招いて対談(鼎談)が行われました。その1部を採録して順次掲載します。 

入江悠 監督富田克也 監督真利子哲也 監督 青山真治監督+安井豊氏井土紀州監督アレックス・ツァールテン氏松本健一氏


8月11日  入江悠監督 映像作品全般の制作、ノライヌフィルム兼、入江悠監督のオフィシャルサイト

『SRサイタマノラッパー』'09  『SR サイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム』'10


瀬々 入江さんとは今日はじめてお会いします。面識もないのにどうして入江さんを呼ぼうと言うことになったかというところから説明します.。
『サイタマノラッパー』で地元を題材としていますね。ぼくは地元を題材としているということにすごく興味がある。
田舎って結構変わったと思うんです。ぼくの田舎もそうなんですが、街の商店街がみんなシャッター通りになって、
国道沿いの大型店でみんな買い物を済ますようになりました。
地方はすごくアメリカナイズされている感じがあります。そんな風に地方がガラリと変わった中で、
ぼくらが思っていた故郷というイメージがなくなって、新しいイメージが出てきたと思うのです。
そういう中で入江さんがどういう立場で埼玉を撮っているのかって興味があるんです。

入江 まさに言われたように埼玉もアメリカナイズされています。そんな埼玉は、日本全国どこにでもある風景だと思っていたので避けていました。
嫌悪感すら抱いていました。が、あるとき考えてみればどうしてそんなに嫌悪感を抱いているのかと疑問になりまして、
それを見極めるために『サイタマノラッパー』を撮ったのです。

瀬々 埼玉がアメリカナイズされたのはいつぐらいからですか?

入江 いつからってのはわかりません。物心ついたときには国道17号に店が集中していました。そういう変化って埼玉だけじゃなく、
全国どこでもそうですよね。だから、ぼくの描いた「サイタマ」は「埼玉」という固有の土地ではなく、普遍的な意味をもっていると思います。

瀬々 どこでも似たような風景が広がっているっていう感じはありますよね。均質化された場所がどこにでもあるなら、
人はどこに住もうがかまわない。にもかかわらず、『サイタマノラッパー』の主人公たちは、ここ「サイタマ」を選ぶんですよね。
均質化された景色の中で彼らは何かを見つけて選択したと思うのですが、彼らはどのように考えてここを選んだんでしょう?

入江 それは登場人物の問題でもあり、自分の問題でもあると思うので、自分に引き寄せて考えてみると、ぼくは若い時分、
生きる意味っていう大上段のテーマについて考えていました。が、しばらくしてやっぱり足元を見つめてみようって気になりました。

瀬々 考えるテーマが大上段ではなくここにもあるって気づいたってことですよね。

入江 ちょっと脇道にそれていいですか。『サイタマノラッパー』は自分自身のコンプレックスを盛り込んでいるんですが、
そのひとつにぼくは京都大学文学部に落ちたんですよ。

瀬々 そうきましたか(笑)。

入江 瀬々さんが行かれた京都大学文学部哲学科に行きたいと思っていんです。

瀬々 そうですか。
http://www.yellow-kid.jp/index.html
入江 そこにいけば、「なんで自分が生きているのか」という形而上学的な問いに答えが見つかるんじゃないかと淡い期待がありました。

瀬々 そうなんだ(笑)。

入江 京都大学では何か見つかりましたか?

瀬々 (笑)大学では、あまり勉強はしていなかったです。大学で刺激になったのは、70年代に運動やっていた生き残りのおっさんたちですね。
ぼくは西部講堂で自主上映をしていたんですが、そういうところに諸先輩方がいらっしゃって、うざいなぁと思いつつ尊敬しつつ、
てめぇこのやろうと思いながらつきあう中で、培ったものでは大きいです。
ひとつ上の世代をたたき潰してやろうって癖がぼくにはあるんですが、そこから始まったのかもしれません。

入江 世代的闘争好きなんですね?

瀬々 ぼくは世代とか年代とかで物事を整理するタイプです。でも最近は、大上段から世の中を見るという思考方法を出来るだけ
減らそうとしている。生々しさとか日常感覚から映画を作っていきたいと思うんです。だから、繰り返しになりますが、
今生きることと、今映画を撮ることを同じ空間で行っている『サイタマノラッパー』が素晴らしいと思った。
いま映画は、億以上の制作費の作品と、ものすごく低予算映画に2極化されたと言われてて、Vシネマのような中間がなくなった。
そういう中で、どういった映画を作っていくのか考えるとき、先程から繰り返している、住んでいる場所で映画を撮るという行為のなかで
何か見つかりそうな気がするんです。
そういう生々しい日常感覚がいますごく大事な気がしていて『ヘヴンズ ストーリー』も、大上段より地べたをまずやるというところから始めたんです。

入江 どのようにして『ヘヴンズ ストーリー』という企画が立ち上がったんですか?

瀬々 2006年に自主映画を撮りたいと思い立ちました。自分の映画履歴を振り返るといつもギリギリ日本映画の流れに間に合ってるんですね。
Vシネマは90年代になくなりますが、ぼくはギリギリ哀川翔さんで『冷血の罠』を98年に撮った。『感染列島』'09 は大きなバジェットですが、
いまでは何億もかける映画はなかなか難しく、ギリギリ大作映画にも間に合った。
でも、ギリギリだけでいいのだろうか? 時代に乗っているだけでいいのだろうか? 
まあ、『感染列島』はその後ですが、そんな漠然とした疑問をもったのです。それが2006年でした。

入江 ぼくはまったく遅れてきた世代だからそのギリギリって感じが最初からなかったですね。
大手制作会社とかインディペンデント映画とかの垣根をまったく感じたことがありません。

瀬々 ぼくは逆だなあ。その垣根が力になっていた。商業映画の監督になったころは、明日ピンク映画がなくなってもおかしくない状況で
ピンク映画を撮っていた。そんなとき、ローバジェットの映画でも一般映画に負けない映画が撮れるんだという意気込みがぼくの起爆剤に
なっていたんです。

入江 でもいまのメジャー映画ってつまらないですよね。ミニシアター文化もなくなりぐずぐずだし。
そんな中で自分の作品が一般劇場でかかって垣根や差異がなくなったと思いました。

瀬々 その辺が、入江さんの世代には、ものごころついたころから日本映画も風景も均質化していたということに繋がるんですよね。
そういう感覚でつくられる入江さんの映画は、やっぱり決して分析的なものじゃなくて生々しいものになるんだと今、思いなおしました。

入江 今日見た作品のことについてご質問していいですか?『すけべてんこもり』'95 では、人間の描き方がモノを描くときと同じですね。
人とモノを等価に扱っているように感じました。
一方、『ヘヴンズ ストーリー』では人間の内面に迫ろうという意思があります。瀬々さんのなかで変化があったと思うのですが……。

瀬々 時代の変化の影響というのはあると思います。『すけべてんこも り』をつくったりしていた90年代のぼくは、映画をストレンジャーの視線から撮っていました。対象との間にある距離があります。ロケ場所にいっても旅行に 来た人のつもりで、そこの土地に潜む感覚を切り取っていた。
登場人物もストレンジャーとして描いていたんです。
やっぱりそれは、見返すと90年代ぽいなぁと思うんです。一方、今の時代はもっと肉薄して生々しく描かないとダメだと思うんです。
今はこういう映画をつくらないといけないと思うんです。今は、確かなこと、確かなものというのがないですよね。生々しく感じることが。
その確かさを映画の中で発見していかなきゃなと思うんです。一方で、確かなものなどなくてもいいっていう志向も自分の中にはあるんですが、
今という時間を生きていくときに、確かなものを掴みたいと思うんです。


(採録:シネ砦集団)


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